コラム
トラベルジャーナリスト/文筆家/写真家 泉美 咲月氏 インタビュー
-前編-
10月より対談連載をスタートさせるトラベルジャーナリストの泉美咲月さん。ヨーロッパやアジアを中心に世界のラグジュアリーホテルを取材してきたご経歴の持ち主です。そもそもは文筆家兼写真家として国内外の旅に関する自著や編集書籍を多数発表されてきました。そこで、そのご活動や、このコロナ禍での変化を通じて改めて見えたホテルの価値・今後への期待についてお聞きいたしました。
(インタビュアーは日本能率協会、丸尾(以下敬称略))

トラベルジャーナリスト/文筆家/写真家
1966年生まれ、栃木県出身。伝統芸能から旅までと幅広く執筆・撮影・編集をこなし、近年はトラベルジャーナリストとして活動。海外渡航歴は44年に渡り、著書には『台湾カフェ漫遊』(情報センター出版局)、『京都とっておき和菓子散歩』(河出書房新社)、『40代大人女子のための開運タイごほうび旅行』(太田出版)他がある。アジア旅の経験を活かし、2018年、自身運営の『アジア旅を愛する大人のWebマガジン Voyager(リンク https://jaime-voyager.net/)』を立ち上げる。タイ国政府観光庁認定 タイランドスペシャリスト2019及びフィリピン政府観光省認定 フィリピン・トラベルマイスター2021。また、日本の医師30万人(医師の94%)が会員である医療ポータルサイト『m3.com』内、Doctors LIFESTYLE編集部にて編集部員兼、医師に向けた旅や暮らしのガイドを務めている。コロナ禍においても一時期を除き、週に1記事の頻度でラグジュアリーホテルの取材・執筆を続けている。
異業種のOLからフリーライターへ
丸尾:泉美さんのライター人生のはじまりについて教えてください。
泉美:OLから、結婚、離婚を経て1994年からフリーランスでライターデビューしました。離婚を機に執筆に取組みたいと思ったのは小説家の森瑤子先生がきっかけでした。ラブストーリーばかりでなく、ホテル・ストーリーやカクテル・ストーリーといった昭和から平成初頭の華やかだった世界観にも多くの影響を受けました。1993年に森先生が亡くなられたのが、きっかけとなり「書きたい」という気持ちが高まりました。
丸尾:森先生が泉美さんの書くきっかけにも、離婚するきっかけにもなったんですね。会社員時代は出版に関係するお仕事をされていたんですか?
泉美:いいえ、まったく違う世界にいました。学生時代は、情報処理科でコンピュータシステムや言語などを勉強していたこともあり、結婚直前までシステムエンジニアとして勤務していました。バリバリ働きたい、即戦力になりたいという思いと、結婚して幸せな家庭を築きたいというふたつの夢がありました。
丸尾:いいじゃないですか。
泉美:残念ながら、結婚してみたら、どうも向いてないなあと(笑)。結局、書くこと、作ることへの願望が高まり離婚に至り、はじめはOLをしつつライターを志しました。同時に好きだった伝統芸能の取材を自主的に行い、出版社にコツコツ売り込むなど、企画は最初から自分で考えていましたね。技術もコネクションも何もないですから「こういう方の取材をしたい」「こういう企画をさせていただきたい」という情熱とやる気だけでスタートしました。
伝統芸能の世界から学んだ2つの指針
泉美:伝統芸能の世界では、狂言の和泉元彌さんの記事や写真集制作、歌舞伎役者では五代目尾上菊之助さんの取材を続け雑誌で記事を書かせていただきました。当時、映画『ピンポン』で脚光を浴びた中村獅童さんの初写真集も手掛けさせていただく他、歌舞伎界においては数々の名優のインタビューをさせていただく幸運を得ました。
その間、和泉元彌さんのお母様、和泉節子さんに。さらに私の歌舞伎の師匠であるフジテレビの常務取締役、共同テレビの代表取締役会長なども歴任された歌舞伎研究家の塚田圭一先生、後に愛犬旅の取材で知り合った川島なお美さんにも、とても可愛がっていただのですが誰に応援していただくか、鍛えていただくかで進路は変わるものですね。ありがたいことに厳しく愛情深い方々に目をかけていただいたおかげで今があると思います。
丸尾:人との出会いって本当に大切ですよね。
泉美:まさに駆け出しの頃、節子さんから「狂言師である夫の元へお嫁に来たときに、舅から『まず10年は目が見えないものだと思って、我を出さずに習い仕えなさい』と言われました」と伺い心に響きました。自分もその覚悟で、初心を忘れず懸命に取り組むことを決意しました。
また「日々、うちには沢山の取材の方がお見えになり、多くの方は、たった1回の出逢いで終わります。でも私たちは二十代も受け継がれてきた芸事の世界に身を置いているからこそ、どんなときでも『長いお付き合いになります。よろしくお願いいたします』と最初にご挨拶申し上げています」とも教わりました。
この言葉にも大きな影響を受けました。以来、私が特に長くお付き合いしたいと思う取材対象者やお仕事関係者の方には「長いお付き合いをさせていただきたいと思います。よろしくお願いします」と伝えることを実践しています。
ホテル取材のきっかけをくれた3つの出会い
丸尾:その後、多くのホテル取材も手掛ける泉美さんですが、そのきっかけは何だったのでしょうか?
泉美:父が旅好きで、競走馬の調教師だったこともあり海外視察に行く度にお土産話しをしてくれていました。また、政治家を目指しつつも早逝した叔父は大学卒業後、アメリカやエジプトに留学していたことから世界的な視野で物事を捉え、旅の経験値の高い人でした。今のようにクリックしたらSNSで海外の動画や画像が見られる時代ではなかったので、父や叔父が撮った写真や、買ってきた本、経験談は貴重でした。小学校6年生のときに初めて海外旅行に行ったのですが、ハワイやサイパン、ロタ島と子どもでも楽しめるリゾート地だったこともあり、その後、海外リゾートホテルに取組む進路にも少なからず影響しました。
丸尾:小さな頃から海外やホテルとの縁があったのですね。
泉美:そして20代になり大きな出会いがありました。ちょうどバブルの時期とも重なりますが、私の出身地、栃木県の那須に二期倶楽部という今でいうスモールラグジュアリーホテルが誕生しました。当時、温泉宿が主流だった栃木県では初ともいえる、大谷石の石造り、オーベルジュスタイル。小さなプロパティならではのおもてなし感に感銘を受けました。
丸尾:泉美さんの感動が伝わってくるようです。
泉美:その後、結婚直前の25歳で森先生の作品に出会いました。その作品の中に、ホテルやバーで起こった出来事がスノッブに描かれているものも少なくありません。たとえば『浅水湾(リパルスベイ)の月』の中にはザ・ペニンシュラ香港のザ・ロビーが出てきます。『ホテル・ストーリー』にも、森先生が実際に旅したラッフルズ・ホテル、サヴォイ・ホテルといった名だたるホテルが出てきて刺激され「ホテルを中心に旅をする」という感覚が芽生えたのです。

影響を受けた森瑤子氏による著作(左)各国の名ホテルが登場する『ホテル・ストーリー』(右)香港を舞台に描かれた『浅水湾の月』には半島酒店(ザ・ペニンシュラ香港)が登場する(写真提供:泉美咲月)
丸尾:小説の世界観が泉美さんのホテルへの思いを強めてくれたのですね。
泉美:離婚しさらに気持ちがホテルへと向かっていきます。1993年10月に新宿のマンションに引っ越したのですが、ベランダから開業直前のパークハイアット東京が見えました。それがきっかけでオープン早々に利用するようになったのですが、1泊してディナーを食べたら家賃より高いんですよね(笑)。さらに、1Kの我が家よりホテルのお風呂の方が広いというカルチャーショックと格差が目の当たりに(笑)。
丸尾:衝撃ですよね。
泉美:今度は、パークハイアット東京に魅了されました。外資系はまだ珍しい時代でしたし、高層ビルにありながら非日常で隠れ家的な雰囲気に惹かれ、利用しているうちに、3回目くらいでしたでしょうか、スタッフの方々から名前で呼んでいただけるようになったんです。「いらっしゃいませ、泉美様」「いつもありがとうございます、泉美様」と呼ばれることは20代後半の私には、とても特別で上質なおもてなしのひとつに感じられました。
丸尾:こうした素敵な経験が泉美さんの源なんですね。
泉美:パークハイアット東京のお声がけやホスピタリティを垣間見て「ああ、この空間にいつもいられる自分になりたいな」と思いましたし、それが今日のホテル取材に結びつきました。ですから、この2つのホテルとの出会いと森先生の影響が取材へとかきたてた原点となります。

ライター駆け出し当時の29歳。パークハイアット東京、当時のパークスイートにて(写真提供:泉美咲月)
誰のために、何のためにこの記事を書くのか
丸尾:今でも色々なホテルを取材されていていますが、どのようなことを発信したいと思いながら続けていますか?
泉美:読者にホテルを訪ねていただくことがナビゲーターを務める私の役目ではありますが、その根底には伝統芸能の取材に取組んでいた頃から変わらぬ想いがあります。例えば歌舞伎ならば高額なお席が切符の多くを占め、昼の部、夜の部と時間が決められていることから観劇を制限する側面がありますよね。そのような中、私がインタビュー記事を書くことで、ひとりでもファンを増やし、1席でも多く売って差し上げたいと自然に心がけるようになりました。
丸尾:そうだったのですね。
泉美:ホテル取材にも早い段階から同じ想いがありました。「試泊で、いいお部屋をご提供いただいた感謝を忘れず、確実にお客様をつくることに貢献したい」と。
丸尾:取材先、関係者の皆さまのためにという想いをお持ちなのですね。
泉美:書きたい、取材によって知的好奇心を満たしたいという意識はありますが、体験をいかに読者である旅人に届けるか。それに加えて、ホテルや航空会社など、ご協力いただく方たちのお役にどう立つかという使命は私の活動の太い軸だと思います。
丸尾:その趣意が通じたなという感覚を得る瞬間はありますか?
泉美:フリーランスと兼業で、m3.com(エムスリー)のDoctors LIFESTYLE編集部で一昨年から執筆、昨年より編集部員も務めさせていただいています。
注釈:m3.comとは、日本最大級の医療従事者専用WEBサイトで2000年に代表、谷村 格氏によって設立。2004年9月に上場、2017年には米フォーブス誌による「世界で最も革新的な成長企業ランキング」において世界5位(日本企業では1位)に選出されている。2000年以降創業で唯一日経225銘柄にも選ばれる他、国内30万人以上、世界10カ国の現地法人と提携し600万人以上の医師が利用するプラットフォームを有する。2021年1月には英経済紙フィナンシャル・タイムズ(FT)がこの1年間の市場価値(S&P グローバル)の成長率で評価した時価総額100億ドル(約1兆円)以上のトップ100にて21位にランキング。日本では640億ドル(210%増)で1位に選出された。
日本の医師の94%にあたる30万人以上の会員の先生方に向けてホテルや暮らしにまつわる「医師のお役に立ち、問題を解決し、一息ついていただける」記事をご提供させていただいていているのですが、m3.comを見てお電話やご予約をくださったというフィードバックが、ずっと続いています。先生方はご多忙で、インターネットで情報を検索する時間もあまりありません。そのような中、m3.comを見たことが行動や宿泊につながっているのを直に見て取れます。
丸尾:それだけ泉美さんの記事は信頼がおけるという証ですね。
泉美:大きなやりがいでもあり、その分、気を引き締めて、常にお役に立つ情報の確実性という点を重視して執筆、配信するよう心掛けています。当然ながら親和性の高いお客様なので同時にホテルのリピーターを生み出す面でもお役に立ちたいと思っています。
コロナ禍だからこそ可能になったこともある
泉美:一昨年ぐらいまでは、インバウンドのおかげで、良いブランドで良いプロパティであれば無条件でお客様に選ばれ、稼働率90%越えも珍しくなかったですよね。しかし、世界中がコロナで閉鎖され、日本を旅することまでも難しくなってしまいました。色々不可能になったからこそ、逆から見れば「色々なことが可能になった」のではないかとも思っています。
丸尾:興味深い視点です。
泉美:もちろん将来的にインバウンドは戻ってきますし、まもなく国内トラベルバブルも始まるという見方もあります。でもそのときこそ、ホテルの皆さんに今の苦渋を忘れてほしくないのです。インバウンドが活性化し「何年で、これまでの赤字が取り戻せるからいい」とは考えてほしくありません。私たちは、予期できない何が起こるかわからない現実をコロナで学びました。それを教訓とし、光の見えなかったこの2年を忘れないでください。
丸尾:コロナになったからこそ気づけたことってありますよね。
泉美:日本では「前例、実績がない」「上司が許さないからやりたいことができない」などの風潮がありますが、そんなことを言っていられなかったのがコロナ禍です。ホテル側もしぶしぶルームチャージを下げ、テイクアウトやお取り寄せ、シェフのレシピ公開や出張サービス、ルームサービスでのコースメニュー提供。犬連れの宿泊プランを各所こぞって始めるなど、ある意味、なりふり構わず頑張りましたよね。そのチャレンジ精神を今後も続けていただきたいと思っています。お客様が戻ってきたからといって、また「前例がないからそれはできません」「忙しいからできません」というスタイルに戻るのだけはやめていただきたいのです。
丸尾:身につまされます。
泉美:クローズせざるを得ない時期に社内研修に取り組み、サービスや意識の向上に務め、既に一部では、国や業態、ブランドを越えた提携により相乗効果を高める試みも始まっています。コロナ禍の今だからこそ、固定概念やブランド意識を払拭し、貪欲に従来にはなかったチャレンジをしていただきたい。他がやっていないこと、頭ひとつふたつ、突き抜けることにトライしていただきたいのです。それができるホテルは未来に向かって繁栄し、必ず発展していくはずです。私も微力ながらお手伝いをさせて頂きたいと願います。
丸尾:チャレンジなくして成長なしですね。
泉美:宿泊者が激減したことから「まずお食事やショップ利用だけでもしていただきたい」という姿勢に変わりましたよね。こうした変化を見ると、まだまだ変り様はあるなと思います。今後、次にこれ以上のものが襲ってこない、もう大丈夫とは誰も言い切れません。インバウンドがないなら、どうやって生き残っていくか。どう従業員を守っていくか。危機管理の勉強になったとも言えるのではないでしょうか。
丸尾:おっしゃる通りだと思います。
泉美:さらに、コロナ禍となり、ふたついいことがあったと思います。ひとつはホテル・ステイが日本人に根付いたことです。それまでは観光して食べ歩くことが主目的で、宿泊は二の次三の次だったものが、感染予防された安心なホテルに籠ってゆっくり過ごすスタイルに変わったのです。自ずと、ホテルで何ができるか、何が食べられるかなど、楽しめる場所なんだと気づかせてくれたのです。
もうひとつは酒類提供禁止が発令されたことです。おかげで世界に比べて遅れていた『モクテル』といったノンアルコールカクテル文化が急速に普及しました。さらに様々なノンアルコールドリンクが流通したことが幸いして、お酒を召し上がらないお客様でもお食事の際、積極的にドリンクをオーダーされ、ホテルやホテルバーを楽しむきっかけになっています。これこそ禍を転じて福と為す、コロナ禍の恩恵です。是非今後も、お客様を楽しませ、喜ばせるホテルであってほしいですね。
丸尾:コロナ禍で得た気づきという観点からいうと、社会課題解決の遅れ、意識の低さも改めて浮き彫りになりましたよね。
泉美:SDGsの面でいえば、海外のホテルに比べると同じ外資系のブランドグループでも日本の土壌では、まだまだ対応、認識ができておらず途上段階と言えます。だからこそ、コロナが収束した後は、積極的に海外のホテルを視察していただきたいですし、参加するのは上層部ではなく、吸収力の高い若い世代のスタッフこそ、行くべきだと考えますこうした世界のホテルから見ると、まだまだ日本は道半ばにあり、形だけにとどまっている未熟さを否めません。実際に海外の現場を見て、取り入れるべきだと思います。
飲食の面でいえば、レストランよりもバーにおいてのSGDsに正直、不安要素を感じています。ホテルバーに限らず、バー業界全体に言えることですが、廃材を利用していれば「サステイナブル」色が濃く、大きなズレを感じています。SDGsはブームでもプレゼンでもありません。廃材を並べたレシピに意義は込められるものの、相応しい価格まで考えるべきです。また、廃材を明記したレシピを見て抵抗を感じるのも事実で、「おいしそう!」「のみたい!」と感じられないことも少なくなく、ましてや紙のストローを添えれば完了ではありません。
SDGsを広く捉え、例えば地産地消の役割が果たすもの、各生産者の想いをくみ取りることも重要です。各地には、優れた素材や生産者はまだまだ存在します。しかも、各地のクラフト系アルコールは活性化する一方ですし、調味料も豊富と、日本は味覚の幅の広い国で廃材以外の材料がたくさんあります。なんといってもホテルバーの強みはキッチンに近いこと。レストラン&バーの共演がクオリティと視野を広げるノビしろになるはずですから、今後も注目していきたいところです。

コロナ禍はホテルにとっての不幸である一方で、変革のチャンスだと話す泉美さん。時計:LOCMAN MONTECRISTO LADY Ref.526 107,800円(税込)
トラベルジャーナリスト/文筆家/写真家
泉美 咲月 氏
写真撮影:Mr KUMU (STUDIO KUMU)
LOCMAN/問い合わせ 03-6264-5552
リンク:www.locman.jp
